3. 難航を極めた大事業、悲劇の16人
▲殉難十六夫慰霊塔(庄内町清川)
堰を通す現場は、全体として一方を最上川が流れ、片方は山地がせまっている急な傾斜地でした。立谷沢川の下流、清川から始まったこの工事でしたが、なかなか思うように開削が進みません。
なかでも清川の御諸皇子(ごしょのおうじ)神社あたりは大変な箇所でした。
ある日のこと、苦心して掘り進めた部分が、ずるずると川の側に崩れ落ち、16人の人夫が生き埋めとなる事故が起きました。利長はこの事故で犠牲になった16人を丁重に弔います。
落胆の色は隠せなかったものの、庄内の荒地を水田に変えるという、利長の決意は揺らぎませんでした。
昭和14年(1939年)に、当時の北楯大堰土地改良区が慰霊塔を建立し、16人の冥福を祈りました。
余談ではありますが、北館家の子孫は16人の冥福を祈り、以来16代目まで家中の祝い事を慎むように伝えられているということです。
4. 最上川の奇跡、青鞍の淵伝説
▲青鞍之淵遺跡碑(庄内町清川)
山際に沿って大堰が流れています。
一難去ってまた一難、さらにその西側まで掘り進むと、今度は最上川が行く手を阻みます。
当時、最上川が急な崖をつくって流れ、工事上、もっとも困難なところにさしあたりました。掘り削っても埋まり、埋めても流され、工事ははかどりませんでした。
利長は、「これは川の神が工事を喜ばないからだ、なんとか神意を慰めよう。」と、金銀・螺鈿で装飾をほどこした自分の馬の鞍を、最上川の渦巻く淵に投げ入れました。
すると、不思議なことにたちまち流れが静まったのです。この奇跡を目の当たりにした家臣や作業員たちは驚愕し、この難所を見事に切り抜け、その後は順調に工事が進みます。
この逸話は、「青鞍の淵」という伝説として、地元に語り伝えられています。
昭和14年(1939年)に、当時の難工事を偲び、土地改良区で石碑を建立しました。
5. 最上義光と北館大学助利長
工事は難工事でしたが、新しい領地庄内が開発されていくのを、最上義光は楽しみにしていました。
しかし、義光はこのとき67歳で、健康状態も悪く現場に行けないことを悔しく思い、現場で働く利長の苦心を察し、働く人々にも温かな思いやりを寄せています。
また、義光と利長の主従関係は親密で、堰工事以外のことでも親しみのこもった手紙をやりとりしています。
堰が完成すると、事業の成功を利長の功績として幕府に報告するなど、いかに利長に信頼し期待を寄せていたか、家臣を思う義光の心情がうかがわれます。