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庄内町 人物伝

庄内町が生んだ画壇の巨匠 世界に羽ばたく水彩画界の巨匠 内藤秀因 1890年~1987年

プロフィール

明治23年(1890年)、大和村古関(現庄内町古関)生まれ。昭和54年(1979年)より日本水彩画会理事長を務め、同年余目町(現庄内町)の名誉町民の称号を受けました。
自らの力で画家としての道を切り開き、風景画を中心に、精力的な制作や発表を続けました。また、画壇での活躍とともに、長年教員として子どもたちへの指導に携わり、さらに東京科学博物館の嘱託職員として16面の壁画や博物画を制作するなど、教育にも力を注ぎました。

【目次】

  1. 作品紹介
  2. 1.生い立ちと青年時代
  3. 2.欧州留学
  4. 3.画壇等での活躍
  5. 4.制作への姿勢
  6. 関連スポット

作品紹介

庄内町 人物伝 内藤秀因作品紹介「岳温泉 桜の道」

岳温泉 桜の道

庄内町 人物伝 内藤秀因作品紹介「気仙沼 大島」

気仙沼 大島

庄内町 人物伝 内藤秀因作品紹介「錦秋」

錦秋

庄内町 人物伝 内藤秀因作品紹介「湯沢残雪」

湯沢残雪

1.生い立ちと青年時代

内藤秀因は、明治23年(1890年)12月19日、大和村古関(現庄内町古関)にある玄通寺の次男として生まれます。
大正2年(1913年)に山形県師範学校を卒業し、22歳で小学校の教員となりましたが、悔いのない仕事として画家の道を選び、3年後に上京して東京美術学校(現東京藝術大学)に入学します。東京美術学校は程なく中退することになりますが、その後も東京に留まり、再び教員として勤めながら、洋画家の石井柏亭や石川寅治に師事し、絵の勉強を続けます。

2.欧州留学

昭和2年(1927年)、美術および美術教育を研究するため、内藤秀因はヨーロッパへと向かいます。途中、当時外交官としてトルコに駐在していた兄の智秀の元に数カ月滞在しました。
翌昭和3年(1928年)にパリに渡り、洋画家・小山敬三の紹介で、アカデミー・スカンジナビアやアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールといった美術学校に通い、オトン・フリエスから指導を受けます。その年の秋、世界的に権威あるフランスの美術展、サロン・ドートンヌに《L'hiver de Constantinople(コンスタンティノープルの冬)》を出品して入選します。
パリでは、絵の勉強のために滞在していた日本人画家たちとも親交を深め、互いのアトリエを訪ねたり、グループ展を開催したりしていました。そのなかで、当時フランスの日本大使として駐仏していた安達峰一郎(山辺町出身)と出会い、安達の紹介によりアマン・ジャンに師事し、洋画を学ぶことになります。そしてアマン・ジャンからの推薦を受け、美術展サロン・デ・チュイルリーに出品します。
このほか、ルーブル美術館で、コロー、ルーベンス、ピサネロ、テル・ボルフ、ベラスケス等の作品の模写などを通して研鑽を積み、昭和4年(1929年)の秋に、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ等に渡り、各地の美術を学びながら帰国しました。

3.画壇等での活躍

帰国後の昭和4年(1929年)、内藤秀因は日本水彩画会の会員となります。日本水彩画会は師の石井柏亭が創立に携わった美術団体でした。意欲的に制作に取り組み、以降、二科会、一水会、日展等、様々な美術団体の公募展に連続入選・連続出品を続けます。
東京での生活を続け、中学校で教鞭を取りながら、昭和5~21年(1930~46年)まで東京科学博物館(現国立科学博物館)の嘱託職員も兼務しました。東京科学博物館では、16面の壁画や歴代館長の肖像画、標本画などの自然科学に関する絵画を制作していました。
戦後は、都内の高校で教員として勤めながら、日本水彩画会の改構に参加し、委員として会の発展に努めました。また昭和39年(1964年)には再度ヨーロッパ各地に渡り美術研修旅行を、昭和54年(1979年)にはギリシャに渡りエーゲ海やアテネの遺跡を訪ねるなど、年齢を重ねても熱心に研究や制作を続けました。
個人制作だけではなく、後進の育成や画壇の振興にも力を尽くし、昭和54年(1979年)、推挙により日本水彩画会の理事長に就任しました。
その年の12月には、町の芸術文化の興隆にもたらした功績を称えられ、余目町(現庄内町)の名誉町民の称号が贈られました。昭和57年(1982年)には余目町総合体育館(現庄内町総合体育館)のステージの緞帳原画を制作します。
昭和60年(1985年)、春の叙勲で木杯を受け、昭和62年(1987年)4月10日、96年の生涯を東京で閉じました。同年の5月に、遺族より日本水彩画会へ「内藤賞設定基金」が寄付されます。また、12月には遺言により約2,000点の作品が余目町(現庄内町)に寄贈されました。

4.制作への姿勢

内藤秀因は、生涯にわたり、絵に対しての信念と情熱、気迫を持ちつづけた画家でした。トレードマークのハンチング帽をかぶり、イーゼルと絵の具を持って日本中を歩き、各地の風景を描きました。家でも旅行先でも立ったまま絵を描き続け、その姿勢は90歳を過ぎても変わることがなかったと言われています。

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