プロフィール
明治元年(1868年)庄内町小出新田生まれ。
良質米品種のササニシキやコシヒカリのルーツとして名高い「亀ノ尾」を作り出した水稲育種家として、全国的に知られている農事功労者です。
「亀ノ尾」は、刈り取りに手がかかるなどの理由で一時生産が止まり、幻の米とも呼ばれましたが、味も非常に良くその魅力を伝えたいという人々の声で、現在は特に酒造用として生産が行われています。
【目次】
1. 生い立ち
亀治は、明治元年(1868年)3月9日、山形県庄内町小出新田(旧大和村)の農家、阿部茂七の長男として生まれました。
父・茂七は、ひ弱な亀治の将来を心配し、小作農家でありながら、6歳から寺子屋に通わせました。やがて学校に入りますが、家が貧しくて高等科に進むことはできませんでした。
12歳で学校を辞め家業の農業を継ぎますが、勉強が好きで独学自習、常に意欲的で学ぶことを怠りませんでした。
当時の阿部家の資産は、水田6畝、畑9反7畝、萱生1反7畝と少なく、当時の地主・本間家の小作と、冬季の造り酒屋の雇賃金で生計をまかなっていました。
2. 稲作近代化への開眼
亀治は、村が畑地帯で水利に乏しく、経済的に行き詰まりつつあることを知り、経営の変革の必要性を痛感するに至ります。当時、この地方の水田は湿田で収穫も少なく、農家の暮らしは楽ではありませんでした。
ここで亀治の力となってくれたのが、学校時代からの親友で良き理解者であったひとつ上の先輩・太田頼吉の存在でした。頼吉の父は当時の造り酒屋を営み、村の知識人でもありました。
農業の研究に熱心な亀治に感銘した頼吉の父の仲介により、土地の老農、篤農家・佐藤清三郎のもとで学ぶようになります。
亀治は17歳のとき、政府が出した「済急趣意書」を読んで感激し、清三郎の助言もあり水田の先進地を訪れて、乾田耕作(かんでんこうさく)の有利な点を見たり聞いたりしました。
そして、多くの反対を受けながらも仲間と乾田を広めることに努力しました。
その後、努力が実って乾田は次第に広がりました。乾田が普及すると、馬耕(馬でスキを引いて耕す)の技術が利用できます。23歳になった亀治は、馬耕の技術を習って数年でこの技術を広めることに成功します。
しかし、亀治にはもう一つ、常に脳裏から消えない課題がありました。清川ダシの冷風害に耐える水稲品種の創選でした。