プロフィール
清河八郎は、清川村(現庄内町 清川)に生まれ育ち、18歳で江戸に上りました。 当時の最高学府に学び、北辰一刀流を修めた後、25歳にして文武指南の清河塾を開いた幕末の志士です。 尊皇攘夷の魁といわれ、明治維新に大きな役割を果たしましたが、志半ば34歳で暗殺されました。
【目次】
1. 誕生と齋藤家
幕末の尊攘派志士、清河八郎(1830~63年)は、天保元年(1830年)10月10日、清川村(現庄内町)の郷士、齋藤治兵衛と亀代の長男として誕生。
齋藤家は、庄内一の醸造石数を誇る酒屋でした。
父・齋藤治兵衛豪寿は清川村の素封家、母・亀代は鶴岡三井家の第三子、兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代、家の5人兄弟。
八郎の幼名は元司、名は正明。清河塾開塾の際、その名を清河八郎と号しました。
故郷清川を流れる最上川を大河の意味の『河』に変えて「清河」とし、故郷を立て称したと伝えられています。
2. 幼少時代
元司(八郎)4歳のとき。「天保の大飢饉」が起こり、清川村も天候不順、最上川の大洪水などで大凶作となりました。 ある日、清川村の若者16人が齋藤家の蔵に押し入り、藩からの預かり米を盗むという事件が起こります。 その時、蔵の酒造用大釜の陰に隠れて一部始終を見ていた元司(八郎)が家の人にそのことを話し、押し入った16人全員が捕獲されます。 父・治兵衛は庄内藩に対し助命嘆願をしますが、15人が斬首、1人が追放となります。 村人は村の窮地を救おうとした16人の若者を悼み、元司(八郎)を非難する声もありましたが、元司(八郎)の明敏さと胆力に驚いたと言います。
3. 学問と剣術~学びの修行時代~
天保8年(1837年)、元司(八郎)7歳のとき、父・治兵衛より孝教の素読を受けはじめ、10歳になると、鶴岡の伊達鴨蔵から学問、清水郡治に書を学びます。
しかし、元司(八郎)はワンパクで悪戯好きな悪童だったため塾を追われてしまいます。
天保14年(1843年)、14歳のとき、清川関所役人だった畑田安右衛門に師事し、論語・孟子・易経・詩経・文遷を学びます。
弘化3年(1846年)、17歳となった元司(八郎)は、酒田の伊藤弥藤治に剣の手ほどきを受け始め、同年5月、東北巡遊中だった藤本鉄石(当時30歳:後の天誅組総裁)が齋藤家を訪ね清川に滞在します。
鉄石との出会いは、17歳となった元司(八郎)に江戸遊学の志に火をつけました。
4. 江戸遊学時代
▲北辰一刀流兵法免許【清河八郎記念館蔵】
弘化4年(1847年)、18歳で江戸に出て、江戸古学派の東條一堂に師事し経学を学び、東条一堂塾の三傑に数えられました。
嘉永4年(1851年)には東条塾の塾頭に推挙されますが、昌平坂学問所を志し当時最高学府の安積艮斎塾に移り、安政元年(1854年)3月、晴れて昌平坂学問所に入学します。
この年、弱冠25歳で江戸神田三河町に『清河塾』を開きます。この時、名前を「清河八郎」に改めています。
剣は、嘉永4年(1851年)2月に千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、翌年に初目録、安政5年(1858年)に中目録、万延元年(1860年)に北辰一刀流兵法免許を得ます。
清河八郎は文武兼備の英士でした。