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庄内町 人物伝

荒れ果てた原野を水田に、北楯大堰を開削 水神様と奉られた庄内開発の恩人 北館大学助利長 1547年~1625年

プロフィール

山形藩主・最上義光の家臣。義光が庄内を支配した後、狩川城主に任ぜられ、土地の不毛さを知り、灌漑のための調査を始めます。 調査には10年の歳月をかけ、「北楯大堰」の開削に着工します。その工事には4ヶ月が費やされました。 そして、ついに荒野は大穀倉地帯として生まれ変わります。
米どころ庄内平野の水田約8千ヘクタールが、現在もこの堰の恩恵をこうむっており、利長は「開発の恩人、水神様」として、庄内町狩川「北舘神社」の祭神として奉られています。
今でも狩川城跡(楯山公園)の利長像が利長自身が心血を注いでつくりあげた水路とその支流、その恵みを受けた美しい水田を見つめています。

【目次】

  1. 1. 荒れ果てた原野を水田に
  2. 2. 10年の努力、「水馬鹿」と呼ばれた情熱家
  3. 3. 難航を極めた大事業、悲劇の16人
  4. 4. 最上川の奇跡、青鞍の淵伝説
  5. 5. 最上義光と北館大学助利長
  6. 6. 北楯大堰完成。庄内開発の恩人・水神様と北舘神社
  7. 大学様のいい話♪やる気満々!埋蔵金
  8. 関連スポット

1. 荒れ果てた原野を水田に

慶長17年(1612年)、山形藩主・最上義光の命により、利長は狩川城主としてこの地を任されます。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後に最上領になった庄内の大部分は、当時は広大な原野で、江戸初期までの狩川・余目地区は狐狸の住み着く荒れた土地でした。
利長は、庄内の民が餓えているのを見て不思議に思い、「なぜ平地なのに稲がないのだ?」と農民に聞いてみると、「水がひけないのです。水がなきゃ稲作は無理でございます。」と切実に言いました。
「なるほど…水がないのが悪いのだな」
民たちは、この荒地を幾度となく開墾しようと川から水を引こうとしましたが、水源となるべき最上川・京田川が土地よりも2~5mも低く直接引水は不可能な地形のため、なかなかうまくいかず日照りの害に苦しんでいました。
最上川という大河に接していながら水利に恵まれず、むしろ最上川の氾濫や低河床という地形上の特徴がもたらす潅漑不能、堤防の不備などによって水田は廃退し、時に大きな災害をもこうむっている土地であることを知らされます。
狩川城主となった利長は、この荒れ果てた原野をなんとか水田に変えたいと考えました。
しかし、そのための「水」をどうやって供給すればよいのか?

2. 10年の努力、「水馬鹿」と呼ばれた情熱家

利長は自らの足で、現地をこと細かく調べました。利長は、日夜庄内を見回り、どうすれば水をひけるか、そのことだけに熱中していました。利長の熱心さは周囲に奇妙にうつり、農民たちは陰で利長を「水馬鹿」と呼んでいました。
展望も見つからないまま月日だけがいたずらに過ぎ、それでも毎日のように現地を調べ歩く利長でしたが、調査を始めて10年近く経ったころ、利長は月山の北側を流れる「立谷沢川」に目をつけます。
「この流れをせきとめ、堰を掘って水をもってくれば豊かな水田地帯になる。大事業だが、これしかない。」と決意します。
慶長16年(1611年)、利長はこの大事業を山形藩主・義光に提案しますが、一部家臣たちに猛反対を受けてしまいます。しかし、これを押し切り、義光は信頼の厚い利長に事業の着工を命じました。山形藩最上家としての一大事業となったのでした。
翌年工事が開始され、責任者は発案者の利長に任されました。
工事に従事する人夫は、新たな最上領である由利・岩屋・亀ケ崎・鶴ケ岡・大山それに櫛引の各地から、6千2百87人を藩命をもって動員し、これに地元狩川からの出役をふくめて、7千人を越えたとされています。

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【目次】

  1. 1. 荒れ果てた原野を水田に
  2. 2. 10年の努力、「水馬鹿」と呼ばれた情熱家
  3. 3. 難航を極めた大事業、悲劇の16人
  4. 4. 最上川の奇跡、青鞍の淵伝説
  5. 5. 最上義光と北館大学助利長
  6. 6. 北楯大堰完成。庄内開発の恩人・水神様と北舘神社
  7. 大学様のいい話♪やる気満々!埋蔵金
  8. 関連スポット

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