5. 諸国漫遊と西遊草
嘉永元年(1848年)、19歳のとき、叔父の弥兵衛一行と大阪~広島~岩国~四国~京をめぐる約4ヶ月の漫遊をします。
その後、八郎は京遊学のために、3年間梁川星厳に師事しますがし、さらに有名な文人学者を訪ねながら九州を目指します。
小倉~福岡~大宰府~佐賀~諫早~長崎~熊本~日田~日出と、2ヶ月あまりの旅の後、江戸に戻り、東条塾から安積良斎塾に移ります。
また、親孝行だった八郎は、安政2年(1855年)、母・亀代を連れて北信~伊勢めぐる母孝行の旅に出ます。
その時の旅日記が紀行文「西遊草」です。
6. 虎尾の会~尊皇攘夷の志~
八郎が志士としての活動を開始するのは、万延元年(1860年)、時の大老・井伊直弼が、白昼少数の水戸浪士に暗殺された、「桜田門外の変」後のことです。
「桜田門外の変」の1ヶ月前、八郎は『虎尾の会』を結成します。”国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味がこめられていました。
メンバーには幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)をはじめとする15名。
「目的は尊皇攘夷-外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たる」というものでした。
同年、虎尾の会のメンバーらが、米国領事官・ハリスの通訳ヒュースケンを殺害し、八郎は幕府に監視されることになります。
翌文久元年(1861年)、幕府の罠にはまり、幕府の手先を無礼斬りしてしまい、八郎は追われる身となります。
虎尾の会同志・妻お蓮・弟熊三郎らが連坐して投獄されてしまい、虎尾の会は分散してしまいます。
7. 九州遊説~寺田屋の変~
▲勤皇志士寄書屏風【清河八郎記念館蔵】
八郎と親交のあった全国の志士による寄書屏風。
文久元年(1861年)、逃亡生活を余儀なくされた八郎は、潜伏期間中、京都で密かに封事を天皇に奉り、薩摩藩の同士を集い勤皇のもとに挙兵する策を押し立て九州遊説につきます。
文久2年(1862年)、薩摩藩主・島津久光の上洛が倒幕の狼煙であるという号令のもと、全国各地の尊攘派志士に呼びかけ、京都で挙兵しようと画策しました。
しかし、薩摩藩主・島津久光の本心は倒幕ではなく公武合体であったため、意見の対立した薩摩藩士同士が斬リ合うこととなります。世に言う悲劇の「寺田屋の変」で、その画策は挫折してしまいます。
8. 急務三策~回天の浪士組結成~
寺田屋の変後、江戸に戻った八郎は、幕府政事総裁・松平春嶽に『急務三策』という建白書を提出します。
これは①攘夷を断行する、②浪士組参加者は今まで犯した罪を免除される(大赦)、③文武に秀でたものを重用する、という内容のものでした。
幕府は、八郎の建白書に飛びつき、将軍上洛の護衛として『浪士組』編成が許可されます。
これにより、獄中の「虎尾の会」志士・同志たちの大赦が出され、八郎自身も自由の身となりますが、妻・お蓮はすでに獄死しており、八郎は深く悲しみます。
翌年文久3年(1863年)、『浪士組』が将軍警衛の黒幕として上洛します。
浪士組一向が京都に到着し壬生村へ入ると、八郎は浪士組を新徳寺の本堂へ集め、「われらの目的は将軍警護にあらず。本分は尊皇攘夷にある。
天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説しました。
突然の話に浪士たちは困惑しましたが、八郎は血判状に隊士の血判を集め、翌日、京都御所の学習院へ提出し、これが受理され、浪士組み宛てに勅諚(天皇のお言葉)を賜ります。
身分の低い浪士が天皇から勅諚をもらうなど前代未聞の出来事でした。
しかし、浪士組の芹沢 鴨・近藤 勇・土方歳三らは八郎に反対し、浪士組を離れ京に残ることになります。このとき残った芹沢 鴨・近藤 勇ら13名が、のちの『新撰組』となります。