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庄内町 人物伝

阿部亀治 1830年~1863年

5. 庄内町の水稲民間育種家

明治維新以来、庄内地方では民間育種家が活発に水稲の新品種創選に取り組んでおり、その成果は全国的にも目を見張るものがあります。
庄内町には、「阿部亀治」をはじめ7名の育種家がいます。
今日のように農業機械や肥料、栽培法も発達していない当時としては、米作の収量を左右したのは天候と品種の改良の善し悪しでした。 そこで、人為的に替えることの可能な品種の改良に目が向けられたのです。こうした背景のもと、この地域の篤農家が品種改良を重ね、数々の優良品種を世に送り出したのです。 現在の銘柄米の先祖をたどれば、どれも庄内民間育種家の手による品種に行き着くはずです。

阿部 治郎兵衛(あべ じろべえ)

阿部 治郎兵衛(あべ じろべえ)

水稲「大野早生(おおのわせ)」を創選。現在の庄内町大野出身。
1870年(明治3年)8月、25歳の時、「勘兵衛」の中から優れた稲穂を抜き取り改良を重ね、水害に強い「大野早生」を創り出した。
また、彼は金魚養殖を農家の副業にしたいと考え、孫までの3代にわたりその改良普及に努めた結果、約50年後に「庄内金」が作出された。 別名「振り袖金魚」といわれ、尾ヒレが非常に長くて優雅に泳ぎ、寒さに強い。現在は、庄内町西袋の養魚場で庄内金の保存が図られている。

檜山 幸吉(ひやま こうきち)

檜山 幸吉(ひやま こうきち)

水稲「豊国(とよくに)」を創選。現在の庄内町京島出身。
1903年(明治36年)、自分の田の「文六」の中から変わった稲穂を抜き取り、これを改良し「豊国」を創り出した。重要品種のひとつで、大粒の食味が良かったので東北一帯に広く栽培された。 特にそのワラは、長稈で節間が長く漂白がきくため、「亀ノ尾」にとって代わり草履表の原料として山形県西村山郡では昭和30年頃まで栽培された。

大沼 作兵衛(おおぬま さくべえ)

大沼 作兵衛(おおぬま さくべえ)

水稲「大野一号(おおのいちごう)~四号」「出羽錦(でわにしき)」を創選。現在の庄内町大野出身。
自然交配の中から稲熱病に強い良穂の固定を試みて、1909年(明治42年)までに「大野一号~4号」を創り出した。翌年には「出羽錦」を創りだしたが、いずれも米質良好多収であった。
また、乾田馬耕・農事改良事業にも活躍した。

阿部 萬治(あべ まんじ)

阿部 萬治(あべ まんじ)

水稲「萬国(まんごく)」を創選。現在の庄内町沢新田出身。
1907年(明治40年)、自分の田の「石臼」の中から変わった稲穂を抜き取り、23歳にして「萬国」を創り出した。 昔、米の収量は「石(1石は150kg)」で数えていたので、多くの収量があるようにとの願望を込めて命名されたものだろう。

土屋 仁助(つちや にすけ)

土屋 仁助(つちや にすけ)

水稲「萬国(まんごく)」を創選。現在の庄内町沢新田出身。
1907年(明治40年)、自分の田の「石臼」の中から変わった稲穂を抜き取り、23歳にして「萬国」を創り出した。 昔、米の収量は「石(1石は150kg)」で数えていたので、多くの収量があるようにとの願望を込めて命名されたものだろう。

森屋 正助(もりや しょうすけ)

森屋 正助(もりや しょうすけ)

水稲「森多早生(もりたわせ)」を創選。現在の庄内町廿六木出身。
1913年(大正2年)に22歳であった正助は、「東郷二号」の変種を選抜して育成し「森多早生」を創り出した。
この品種は、多肥栽培に能力を発揮し、高蛋白の遺伝子を持つ米であり、後にササニシキ・コシヒカリ・はえぬき等の銘柄米の創出にも交配母として用いられた。

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【目次】

  1. 1. 生い立ち
  2. 2. 稲作近代化への開眼
  3. 3. 水稲品種「亀ノ尾」の創選
  4. 4. 晩年とその後
  5. 5. 庄内町の水稲民間育種家
  6. 関連スポット

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