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阿部亀治写真
■阿部亀治(あべ かめじ)

 明治元年(1868年)3月9日、山形県庄内町小出新田(旧大和村)の小作農・阿部茂七の長男として誕生。
 家業を継ぎ、温厚で研究熱心。早くから余目の篤農家・佐藤清三郎の指導を受け、湿田乾田化の必要性、寒冷地稲作の特殊性を学んだ。政府の済救趣意書に深く感銘、乾田馬耕、雁爪除草、水稲の改良などの研究に没頭。
 明治26年に優良新品種「亀ノ尾」を創り出し、国内だけでなく、朝鮮、台湾など広く栽培された。
 また、耕地整理、産業組合の創設、村農会の発展にも貢献。昭和3年1月2日61歳で死去した。


阿部亀治翁頌徳碑
■阿部亀治翁頌徳碑

山形県庄内町小出新田・八幡神社の境内にあり、亀治が昭和2年に藍綬褒章を受章した際、記念として建立されました。
毎年9月5日に顕彰祭が行われ、「ササニシキ」や「コシヒカリ」の祖先として有名な水稲の三大品種「亀ノ尾」を生んだ阿部亀治翁の偉業を讃えています。


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阿部亀治【明治元年〜昭和3年】

 全国的に、良質な米のルーツとして有名な「亀(かめ)()」。米に対する世界の目は厳しいですが、この品種をつくり出した阿部亀治(あべかめじ)の業績と「亀ノ尾」の果たしてきた役割は非常に大きなものがあります。

◎亀治の生い立ち
 亀治は、明治(めいじ)元年(1868年)3月9日、山形県庄内町小出新田(やまがたけんしょうないまちこいでしんでん)旧大和村(きゅうやまとむら))の農家、阿部茂七(あべもしち)の長男として生まれました。
 父・茂七は、ひ弱な亀治の将来を心配し、小作農家でありながら、6歳から寺子屋(てらこや)に通わせました。やがて学校に入りますが、家が貧しくて高等科に進むことはできませんでした。12歳で学校を辞め家業の農業を継ぎますが、勉強が好きで独学自習、常に意欲的で学ぶことを(おこた)りませんでした。

 当時の阿部家の資産は、水田6畝、畑9反7畝、萱生1反7畝と少なく、当時の地主・本間家の小作と、冬季の造り酒屋の雇賃金で生計をまかなっていました。

◎稲作近代化への開眼
 亀治は、村が畑地帯で水利に乏しく、経済的に行き詰まりつつあることを知り、経営の変革の必要性を痛感するに至ります。当時、この地方の水田は湿田(しつでん)で収穫も少なく、農家の暮らしは楽ではありませんでした。

 ここで亀治の力となってくれたのが、学校時代からの親友で良き理解者であったひとつ上の先輩・太田頼吉の存在でした。頼吉の父は当時の造り酒屋を営み、村の知識人でもありました。農業の研究に熱心な亀治に感銘した頼吉の父の仲介により、土地の老農、篤農家・佐藤清三郎(さとうせいざぶろう)のもとで学ぶようになります。

 亀治は17歳のとき、政府が出した「済急趣意書(さいきゅうしゅいしょ)」を読んで感激し、清三郎の助言もあり水田の先進地を訪れて、乾田耕作(かんでんこうさく)の有利な点を見たり聞いたりしました。そして、多くの反対を受けながらも仲間と乾田を広めることに努力しました。
 その後、努力が実って乾田は次第に広がりました。乾田が普及すると、馬耕(ばこう)(馬でスキを引いて耕す)の技術が利用できます。23歳になった亀治は、馬耕の技術を習って数年でこの技術を広めることに成功します。
 しかし、亀治にはもう一つ、常に脳裏から消えない課題がありました。清川ダシの冷風害に耐える水稲品種の創選でした。

◎水稲品種「亀ノ尾」の創選
 明治26年(1893年)、亀治が26歳のときです。
 この年、山形県の稲作は不良で、稲の倒れた状態があちらこちらで見られました。
 あるとき、庄内町肝煎中村(旧立谷沢村)(しょうないまちきもいりなかむら(きゅうたちやざわむら))にある熊谷神社にお参りに行った亀治は、冷害でほとんどの稲が被害を受けている中で、1株から元気に実を結んだ3本の稲穂(いなほ)を偶然に発見します。
 亀治は、この3本の稲穂をゆずってもらい、この(もみ)を原種として研究に研究を重ね、4年をかけて新しい品種を生み出しました。

明治30年(1897年)に誕生したこの新水稲種が「亀ノ尾」です。

 「亀ノ尾」の特徴は、他の品種と比べて(くき)が長くしなやかで、風害に対して比較的倒れにくく、害虫にも強くて穂が出てから実るまでの期間が短い品種でした。しかも、多くの肥料(ひりょう)を必要とせずに、安定した収穫が可能でした。その後も、亀治は実った稲から優秀な稲穂を選び出すことを毎年行って、種の劣化(れっか)を防ぎました。
 明治38年(1905年)、宮城県と福島県が大凶作(きょうさく)となり、両県から種籾のために大量の「亀ノ尾」の注文が届きました。
 亀治は、宮城県庁に精選した「亀ノ尾」の種籾一斗(いっと)(約18リットル)を寄付(きふ)した他に、種籾をゆずってほしいとおとずれた人にも無料でゆずり、金や欲にこだわらず、熱心に農業改良に取り組みました。
 このような亀治の努力が実って、明治の末から大正時代にかけて、「亀ノ尾」は、国内はもとより朝鮮(ちょうせん)半島や台湾(たいわん)でも栽培(さいばい)されるようになりました。
 大正14年(1925年)ごろには、栽培面積が19万5千町歩(ちょうぶ)(約19万5千ヘクタール)に達し、「神力(しんりき)」や「愛国」と並んで米の三大品種としてその名を(とどろ)かせました。

 生涯を米の品種改良にかけた亀治は、その功績により多くの表彰を受けました。  大正10年(1921年)には大日本農会(だいにっぽんのうかい)から有功賞(ゆうこうしょう)を受け、大正14年には皇太子殿下にお会いする栄誉(えいよ)を得ました。その後、昭和2年(1927年)には藍綬褒章(らんじゅほうしょう)(産業振興(しんこう)などの功労者に与えられる褒美(ほうび)の一つ)を受章しました。これを記念して八幡神社(はちまんじんじゃ)境内(けいだい)石碑(せきひ)が建てられました。除幕式には亀治も列席しましたが、翌年の昭和3年(1928年)、61歳でその生涯を閉じました。

 冷害に強くて味がよく、収穫が多い「亀ノ尾」は、その後も育種関係者の注目を集めて、現在のおいしい米の交配親(こうはいおや)となってすぐれた品種を世に送り出しました。ササニシキやコシヒカリ、ひとめぼれなどに代表される良食味米(りょうしょくみまい)のルーツをたどると、そこには「亀ノ尾」があります。
 激しいまでの情熱を持って米作に対する姿勢を貫いた阿部亀治の思いは、はるかなときを越えて脈々と現代に受け継がれています。
 最近、酒づくりに好適(こうてき)な品種としての評価が高まり、全国の蔵元(くらもと)で「亀ノ尾」が使用されるようになりました。そのため、今も全国各地で「亀ノ尾」の栽培が続いています。

 ■参考:
  ◎おいしい米の原点「亀ノ尾」と阿部亀治/余目町歴料調査専門員 日野 淳氏
  ◎余目町史下巻 第7編 余目の人物 阿部亀治
  ◎先人が残してくれた宝物のこと/創造ネットワーク研究所

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